人類文明の黎明と暮れ方

2018年11月6日「放送大学の本棚」への投稿

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青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』(講談社学術文庫,2018年)
関連科目:『哲学思想を今考える(’18)』など

前の学期で『哲学思想を今考える』を受講していた時、人間の歴史をものすごく引いてみた時どうなるかが気になって読み始めた本ですが、途中でしばらく放置状態になり、また最近になって読書再開してようやく読み終えたのでその記念に投稿します。

この本のオリジナルは「興亡の世界史」という21巻の全集物の一巻(タイトル同名)です。今年それを改めて加筆したものを文庫本化したのが本書です。

人間の文明のスタートは「4大文明」からとこれまで刷り込まれてきたわけですが、その認識はもう過去のもののようです。さらに言えば4大文明を強調するのはどうも日本だけらしい。

文明というものは好環境の下、悠久の時間を積み重ねて出来上がったものでもないらしい。メソポタミアあたりの一連の文明は最初山岳に近いあたりの気候的に好条件の環境から発生したらしいが、人口が増えるとともに南の乾燥した地帯へと広がりそこで灌漑というシステムを作り上げ割と短期間のうちにさらに大きな進化を遂げた。

中国がいち早く農業を取り入れ国家を築き始めた頃、日本はまだ縄文時代で採集生活を送っていた。これも日本列島という環境が生きていくのに好環境であったから。こういう状態が1万年以上続いた。

人間が賢くなって文明ができるというのは間違いで、集団が窮地に立ったとき何かしらの工夫が生まれそれが文明となったという捉え方の方がいいのかもしれない。

今の文明はほとんど「ヨーロッパ文明」に括られるのだろうが、この文明もギリシャ、ローマあるいはユダヤというピンホールを通してかつてのメソポタミア文明が投影されているのではないかという感想を持った。この本を読んだ限りではあながち方向違いの思い込みでもないように思う。

などなど、いろいろなことをこの本を通して思ったわけですが、この本ではタイトルのとおり「文明の黎明」を考察するとともに「暮れ方」にも触れているわけで、文明というのは高い目標に向かってリニアに突き進むものではなく、何かの理由によって突発的に勃興し、同時に全く同じ理由で衰退していくものなのだと言わんとしているようであります。

誰にもわかるハイデガー— 文学部唯野教授・最終講義

2018年9月24日「放送大学の本棚」への投稿

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筒井康隆『誰にもわかるハイデガー— 文学部唯野教授・最終講義』(河出書房新社,2018年)
関連科目:『哲学思想を今考える(’18)』など

前期で『哲学思想を今考える(’18)』を取りました。この科目の実に幅広い学習対象の中でハイデッガーは結構なボリュームを占めていたので、そこからこの20世紀を代表する哲学者の思想の輪郭を少しはイメージできた気がして、いずれは『存在と時間』を…とは思いつつなかなか手が出ません。その代わりと言ってはなんですが、表題の本を手にしてみました。内容はあまりにもわかりやすく誰でも理解できるものなので、あえてここでそれにふれるつもりはないですが、解説者の大澤真幸さんによると「専門家が一生かけても汲み尽くせぬ難解な書を驚くほどわかりやすく、正確に抽出」とまで書かれているので、買って読んでもまあ損はない本だと思います。講演を本にしたとても薄い本ですし。

この本で解説されていた基本用語でもここに挙げておきます。
第一講
被投、企投、開示、現存在(ダーザイン)、平均的日常性、道具的存在者、配慮的気遣い、世界内存在、事物的存在者、実存、本来性・非本来性、共存在(共現存在)、思慮的気遣い、世人、情状性、語り、頽落
第二講
空談、空文、好奇心、曖昧性、不安、恐れ、驚愕、戦慄、仰天、狼狽、未了、再極限の未了、先駆、先駆的了解、証し、良心、責めあり(責め)、先駆的決意性、時間性、到来、既在、現成化、瞬視、時熟、時間内存在

意味はわからなくとも念仏のように唱えているとこ利益があるかもしれません。

ところで、『哲学思想を今考える(’18)』の試験を受け、「これは○Aとれたな」という感触を抱いていたところ、なんとCという結果がかえって来ました(!)。上の用語でいうと、この場合「仰天」がこれに当てはまるようです。

HANNABACH Silver-Special Super High Tension

使用楽器ホセ・オリベ(1976)に張る弦の評価を行っています。今回はHANNABACHのClassic  Guitar Strings Silver-Special のSuper High Tension。

なにせスーパーハイテンションなので、十分それを意識して気張って弾くと、それは立派な音が出る。それは楽器が変わったのか?というほどの違い。セゴビアのような音を目指す人にはいい弦なのかもしれない。ただ曲というものは常にフォルテでガンガン鳴らし続けるものではないので、弱音の時の表現力というのも重要だと思うが、その辺の表現力を満たしているかというと、そうでもない。

評価(5点満点)

総合評価 4
音程 5
高音の伸び 4.5
音色 立派。
弾きやすさ 3。
耐久性 3。

 

コンセルティステ

使用楽器はホセ・オリベ(1976)に張っている弦の評価を行っていくことにする。

今の使用弦はコンセルティステ。この弦にはミディアムテンションとフォルテテンションがあるらしいが、包装の袋を捨ててしまっているのでそのどちらなのか確認ができない。1-4,2-5,3-6という組み合わせで同一の袋に入っていた。

評価(5点満点)

総合評価 4。バランスがいい。特に不満はない。
音程 問題なし。
高音 伸びは割といい方だと感じた。4くらいか。
音色 特に惹きつけるものはないが、オーソドックスでバランスもいいと感じた。
弾きやすさ あまり弾きやすくもないがとりあえずこれを3という基準値にしておく。
耐久性 張って2週間以上経つがあまりへたった感じもない。

ドゥールーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

2018年8月17日「放送大学の本棚」への投稿

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仲正昌樹『ドゥールーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』(作品社,2018年)
先日福岡のジュンク堂で目についたので買ってきました。ドゥールーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』を如何に理解するかという解説本です。対象とされている『アンチ・オイディプス』は世の中が「ポストモダン」を意識していた頃、私も一度最後まで読みました。

〈それ〉ça は作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで〈それ〉は作動している。〈それ〉は呼吸し、〈それ〉は熱を出し、〈それ〉は食べる。〈それ〉は大便をし、〈それ〉は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ〉le ça と呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械 des machines なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。

こんな調子で始まり、間もなく「欲望する機械」「器官なき身体」という概念が導入されていきます。これがなんともとらえどころがない。よくわからない。多分「『アンチ・オイディプス』がさっぱりわからんぞ」という需要は結構世の中に蔓延しているものと思われます。そうであればこのような解説本がもっと早く世の中に出てきても良かった。
『アンチ・オイディプス』を解説したものは、これまでにたくさん出ていたのかもしれません。それでも『アンチ・オイディプス』は実はこういう意味だったと世間が納得した形跡はありません。このような中で「松岡正剛の千夜千冊」の1082夜「アンチ・オイディプス」https://1000ya.isis.ne.jp/1082.html の解説には、「やはりそういうことだよな」と激しく同意したくなるものでした。
そんなこんなで『アンチ・オイディプス』は私にはよくわからなかったものの、折につけその概念を持ち出して世の中の物事を考えてみる作業は続いていました(半分無意識ながら)。『アンチ・オイディプス』は多分こんなことを言っているだろうという、自分なりの問題意識は出来上がっているような気がしています。今回仲正さんのドゥールーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』でその答え合わせみたいなことができるかもしれません。

『よくわかる化学基礎+化学』, Gakken, 2013


2018年5月11日「放送大学の本棚」への投稿

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よくわかる化学基礎+化学』, Gakken, 2013
関連科目:初歩からの化学

大学の化学となるといかに初歩とはいえ最初から量子力学がドカンとはいってくるわけで、それほど楽な科目ではありません。文系歴40年の身としてはつい気弱にもなり本屋の高校参考書などにふらっと立ち寄ったわけです。高校ともなればどの科目も分厚い参考書が立ち並んでいます。たった3年間でこんな分量を勉強する(べき)ことになっている事実に気が遠くなりそうです。今日日こう言った参考書のつくりはどの社も多色刷りで実にきらびやかな構成をほこっているわけですが、わたしとしてはこの節操もない色使いに目がチラチラしてきて心がおちつきません。と、そのなかに多色ながらも色使いに抑制がかけられ、これならば心静かに学習ができるのでは、と思わせてくれるものを発見しました。装丁もカバーを取るとシンプルで好感が持てます。
中を見ると「酸化還元」みたいなものはなんとなく見聞きしてきたものではありますが「ヘスの法則」「ヘンリーの法則」などこれまでの人生に一度も交差してこなかったような用語がいっぱい目に入ってきます。これでよく今日までやってこれたものだなと多少こころは痛みますが、いまからでもこういった未体験ゾーンに足を踏み入れられることは実に素敵なことだと思います。「ヘスの法則」も「ヘンリーの法則」も生計のたしになるものではないですが、今後の人生を豊かにはしてくれることでしょう。

「不死身の特攻兵」

2018年4月5日「放送大学の本棚」への投稿

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鴻上尚史,2017,「不死身の特攻兵」,講談社現代新書

「体当たりで死んでこい」という命令に反して何度も生還してきた特攻兵がいた。鴻上さんが近年まで生きていたこの元特攻兵を取材したことを原点に書かれた本です。その当時の状況は著者が関連の資料からストーリーを組み立て直して語られます。それらは「なんと理不尽な」とか「あり得べからざる」という怒りがかなり混ざったトーンを持っています。案外本人は、もはや誰を憎むでもなく最近まで淡々と生きてきています。当時何度も生還できた(その環境に抗ってきた)ことを本人は「寿命だった」と表現していますが、この実感がこの本の特色になってると思いました。

最後の章で鴻上さんは特攻についての考察を加えています。その一つ一つに私は著者と同じ心情になりましたが、それだけで済ますわけにもいかないとも思いました。

「特攻」の頃に見られた光景やその原型が今なお残っていたり、形を変えて再現されたりしているのを強く感じます。高校野球はなぜか戦時中の空気を今だに漂わせています(この著者も同じような感想を抱いているようです)。最近の「忖度」にしろ「改竄」にしろそれをとりまく精神風土はあの時代から連綿と引き継がれてきたもののように感じます。むしろヤバいのは我々自身がどこかにまだ(無自覚ながら)そういう精神を持っているということなのではないか。

「現代思想の316冊」

現代思想2018年4月号「現代思想の316冊」、青土社

少なくとも今世紀に入ってから初めて雑誌「現代思想」を買ってきました。現代思想のブックガイドです。私の慢性的な教養不足をなんとかしたいと思って…。

パラパラ拾い読みした印象は、ああ、理解できる内容だ。その昔この雑誌に立ち向かったときには、とにかく取り付く島もない感じでした。あの頃は難しさが一つのファッションだったのか、呆れるほど自分に知識が不足していたのか…。多分「現代思想」自体、編集者が何世代か入れ替わっていて、また時代もすっかり様変わりして、ずっと読みやすくなっている感じがします。

20あまりの分野に分けて、それぞれの現代思想関係の本を紹介してくれます。昔のようにポスト構造主義、ポスト・モダン一辺倒という雰囲気は完全に姿を消し、バランス良く、自然体を保っているように思えます。ただ、意外にフーコーは各分野でいまだによく参照されている感じはしました。

拾い読みで「精神医学」の分野はどうなっているか見てみましょう。フーコーとか精神分析とかといった要素を完全に締め出したかに見える現在の「精神医学」ですが..。最近では臨床の場に再び「人文知」(哲学思想)との協働の動きが出てきているとのこと。フーコーの「狂気の歴史」の視点をおさえた上で様々な新しい傾向が出てきているようです。そういえばここでは取り上げられていませんが先日ご紹介した「中動態の世界」(國分功一郎)も臨床に直結した新しい視点を与えてくれています。そんな中で「あたらしい狂気の歴史」(小泉義之)という本に興味がそそられました。

長々と書いてしまいましたが、この本で興味のある分野の思想本を見つけてみてはいかがでしょう。

Histoire de la folie à l’âge classique

2018年3月7日「放送大学の本棚」への投稿

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Michel Foucault, 1972, Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard

ミシェル=フーコーの『狂気の歴史』の第一部をなんとか読み終えましたが、この訳語のわかりにくさに発狂して原書を発注してしまいました。アマゾンでペーパーバックでも10,000円という価格だったので、マーケットプレースで2,420円の古本を見つけた時「安い!」という気がして思わずポチりました。とはいえフランス語は放送大学でフランス語Iとフランス語IIをやっただけなので、この原書がスラスラ読めるわけではありません。

第二部冒頭、日本語訳では次のような箇所が出てきます。

「けれども結局、いかなる知の形態が、特異で、秘教的で、あるいは地方特有であるから、唯一の地点で、しかも単一な構成によってしかけっして示されないというのだろう?」

この文章、果たして日本語なのでしょうか?ともかく前後関係から何を言わんとしているのか忖度することはできます。しかしどこか腑に落ちない納まりの悪さがつきまといます。こうした集積が私のフーコー体験になって行くわけで、これは思うに大変不幸なことです。

原書では次のとおり。

“Mais quelle forme du savoir, après tout, est assez singulière, ésotérique ou régionale pour n’être donnée jamais qu’en un point, et dans formulation unique?”

これをGoogleの翻訳にかけます。

「結局のところ、どのような形式の知識は、一点でしか与えられない単数形、難解な形または地域的なものであり、単一の形式であるのでしょうか?」

Googleも「狂気」ぶりは先ほどの翻訳に負けてない気がしますが、こちらの方が多少わかる気が…。多分、assez…pour〜は、〜するのに十分…だという構文くさいので、��ある知識の形態が、一まとまりである為に、どのようにして、複雑怪奇で極めてローカルな形を取りうるのか。つまり、元来バラバラなものをまとまった形にすると奇妙奇天烈になってしまうということを言いたいのかな、などと思えてきます。(後続の文章を読んで行くとこの部分は反語的であることがわかる)