「不死身の特攻兵」

2018年4月5日「放送大学の本棚」への投稿

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鴻上尚史,2017,「不死身の特攻兵」,講談社現代新書

「体当たりで死んでこい」という命令に反して何度も生還してきた特攻兵がいた。鴻上さんが近年まで生きていたこの元特攻兵を取材したことを原点に書かれた本です。その当時の状況は著者が関連の資料からストーリーを組み立て直して語られます。それらは「なんと理不尽な」とか「あり得べからざる」という怒りがかなり混ざったトーンを持っています。案外本人は、もはや誰を憎むでもなく最近まで淡々と生きてきています。当時何度も生還できた(その環境に抗ってきた)ことを本人は「寿命だった」と表現していますが、この実感がこの本の特色になってると思いました。

最後の章で鴻上さんは特攻についての考察を加えています。その一つ一つに私は著者と同じ心情になりましたが、それだけで済ますわけにもいかないとも思いました。

「特攻」の頃に見られた光景やその原型が今なお残っていたり、形を変えて再現されたりしているのを強く感じます。高校野球はなぜか戦時中の空気を今だに漂わせています(この著者も同じような感想を抱いているようです)。最近の「忖度」にしろ「改竄」にしろそれをとりまく精神風土はあの時代から連綿と引き継がれてきたもののように感じます。むしろヤバいのは我々自身がどこかにまだ(無自覚ながら)そういう精神を持っているということなのではないか。

「現代思想の316冊」

現代思想2018年4月号「現代思想の316冊」、青土社

少なくとも今世紀に入ってから初めて雑誌「現代思想」を買ってきました。現代思想のブックガイドです。私の慢性的な教養不足をなんとかしたいと思って…。

パラパラ拾い読みした印象は、ああ、理解できる内容だ。その昔この雑誌に立ち向かったときには、とにかく取り付く島もない感じでした。あの頃は難しさが一つのファッションだったのか、呆れるほど自分に知識が不足していたのか…。多分「現代思想」自体、編集者が何世代か入れ替わっていて、また時代もすっかり様変わりして、ずっと読みやすくなっている感じがします。

20あまりの分野に分けて、それぞれの現代思想関係の本を紹介してくれます。昔のようにポスト構造主義、ポスト・モダン一辺倒という雰囲気は完全に姿を消し、バランス良く、自然体を保っているように思えます。ただ、意外にフーコーは各分野でいまだによく参照されている感じはしました。

拾い読みで「精神医学」の分野はどうなっているか見てみましょう。フーコーとか精神分析とかといった要素を完全に締め出したかに見える現在の「精神医学」ですが..。最近では臨床の場に再び「人文知」(哲学思想)との協働の動きが出てきているとのこと。フーコーの「狂気の歴史」の視点をおさえた上で様々な新しい傾向が出てきているようです。そういえばここでは取り上げられていませんが先日ご紹介した「中動態の世界」(國分功一郎)も臨床に直結した新しい視点を与えてくれています。そんな中で「あたらしい狂気の歴史」(小泉義之)という本に興味がそそられました。

長々と書いてしまいましたが、この本で興味のある分野の思想本を見つけてみてはいかがでしょう。

Histoire de la folie à l’âge classique

2018年3月7日「放送大学の本棚」への投稿

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Michel Foucault, 1972, Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard

ミシェル=フーコーの『狂気の歴史』の第一部をなんとか読み終えましたが、この訳語のわかりにくさに発狂して原書を発注してしまいました。アマゾンでペーパーバックでも10,000円という価格だったので、マーケットプレースで2,420円の古本を見つけた時「安い!」という気がして思わずポチりました。とはいえフランス語は放送大学でフランス語Iとフランス語IIをやっただけなので、この原書がスラスラ読めるわけではありません。

第二部冒頭、日本語訳では次のような箇所が出てきます。

「けれども結局、いかなる知の形態が、特異で、秘教的で、あるいは地方特有であるから、唯一の地点で、しかも単一な構成によってしかけっして示されないというのだろう?」

この文章、果たして日本語なのでしょうか?ともかく前後関係から何を言わんとしているのか忖度することはできます。しかしどこか腑に落ちない納まりの悪さがつきまといます。こうした集積が私のフーコー体験になって行くわけで、これは思うに大変不幸なことです。

原書では次のとおり。

“Mais quelle forme du savoir, après tout, est assez singulière, ésotérique ou régionale pour n’être donnée jamais qu’en un point, et dans formulation unique?”

これをGoogleの翻訳にかけます。

「結局のところ、どのような形式の知識は、一点でしか与えられない単数形、難解な形または地域的なものであり、単一の形式であるのでしょうか?」

Googleも「狂気」ぶりは先ほどの翻訳に負けてない気がしますが、こちらの方が多少わかる気が…。多分、assez…pour〜は、〜するのに十分…だという構文くさいので、��ある知識の形態が、一まとまりである為に、どのようにして、複雑怪奇で極めてローカルな形を取りうるのか。つまり、元来バラバラなものをまとまった形にすると奇妙奇天烈になってしまうということを言いたいのかな、などと思えてきます。(後続の文章を読んで行くとこの部分は反語的であることがわかる)

『創造の方法学』

2017年11月20日「放送大学の本棚」への投稿

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高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書,1979年)

先日未読蔵書の中から取り出してきて読んで見ました。著者は若い頃戦後平和運動の活動家で、その後スタンフォードで社会学を学び、この本ではその時の体験が中心になっています。昭和54年当時なんでこの本を買ったのか忘れましたが多分「創造の」というキーワードあたりに反応して買ったものと思われます。今でこそ社会学といえば統計とか調査とかの手法に基づくものが中心になっていますが、私が学生の頃社会学といえばマルクス社会学が大学では幅を利かせていたと思います。マックスウェーバーの講座もあったのでしょうがそれほど目立たなかったと思います。著者がアメリカに渡ったのはもっと遡った1963年。まだ今のような社会学の枠組みは影も形もなかったに違いありません。そこで社会学の新しい手法に触れるわけです。

この本はある学問の内容が書かれたものではありませんでした。むしろ、著者が体験してきたことが随筆的に書かれていて、それはそれで気軽に読みやすく、現代とのギャップみたいなものも見えてきて面白く思えました。いまではこんなタイプの新書本は成立しないだろうなあとは思います。

アメリカの学生は皆ちゃんと古典を押さえてるなあという印象を持ちました。マックウェーバーやデュルケム、当然ですがトクヴィルなど基本は押さえた上で社会学を勉強している感じがしました。

印象に残ったのはある歴史学の助教授が自分の書いた論文に対し、社会学の専門家としての著者にコメントを求め、著者が思わず「叙述的」という形容をコメントの中に入れた途端、その助教授の顔色がみるみる変わったというエピソード。歴史学とはいえ叙述的という評価は屈辱的だったのでしょう。日本との学問の風土がかなり違っていると思いました。(日本ではいまだに「叙述的」に書かれた本が横行しています)

『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』

2017年9月22日「放送大学の本棚」への投稿

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國分功一郎, 『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』, 医学書院, 2017

先日紹介した「大学で勉強する方法」の手法を取り入れて「ざっと読み」をかけてみました。なので、本の内容をちゃんと理解できた段階ではないと思いますが、とりあえずアウトプットしてみます。

國分さんは主にスピノザを研究している哲学者で、Twitterでも結構発言していて、注目を集めている人のようです。タイトルにもある「中動態」がキーワード。能動態でも受動態でもない態があるらしい。今の我々には能動でも受動でもない態など俄かに想像することも難しい感じがしますが、能動受動の概念は我々の言語に後から追加されたものらしい。そもそも古代ギリシアには「意志」という概念がなかったそうです。「エーそんなこと許されるのか」とびっくりですが、もともと「意志」がなければ能動も受動もないわけです。「意志」がクローズアップされるようになりそれとともに中動態は姿を消したのでしょう。

ところが我々がもはや手放してしまった中動態にこそ本質があるのではないか、というのがこの本のテーマみたいです。中動態という問題提起を行なった言語学者パンヴェニスト、それに文句をつけたジャック・デリダ、意志と選択を区別したハンナ・アレント、「意志」を真っ向から否定したアレントの師ハイデッガーなどが登場します。そしてスピノザの内在論を中動態の視点で見直します。最後にメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』論が暗示的に語られます。

以上、「予告編」に過ぎませんが。

『大学で勉強する方法』

2017年9月19日「放送大学の本棚」への投稿

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A・W・コーンハウザー著 D・M・エナーソン改訂(山口栄一訳)『大学で勉強する方法』, 玉川大学出版部, 1995

元々は1924年にシカゴ大学の1年生へのアドバイスとして書かれた小冊子だったようです。深遠な教訓みたいなものは微塵もなく、学生が具体的に何をすればいいかが、シンプルに書かれています。それがいかに的を射たものであったかは、その後今日まで代々読み継がれている実績からも明らかでしょう。

この本は10のアドバイスで構成されていますが、その中から5番目の「読み方を効率的にするにはどうしたらいいか」について少し。

最初から本を一語ずつ丁寧に読んでいくのは効率が悪いらしく、まずは全体をざっと読んで見るのが良いと書かれています。しかるのちに必要に応じて精度をあげながら何度も読む方が短時間で読めるのだと。(日頃続々と出てくる速読本にもよく書かれているようなことかもしれませんが、これが身につく読書としても良いということですね。)ざっと全体をとらえるにはどうしたらいいか、そしてその後精読するにはどうしたらいいかがポイントごとにわかりやすく示されています。あとは私がここでグダグダ書くより実際に本書を手にとって読まれるのが手っ取り早いです。

で、この本で一番大切なのはそれを実行すること。何も難しいことは書かれていませんから。

原題は”How to Study: Suggestions for High School and College Students (Chicago Guides to Academic Life)”, 1993

Shooting an Elephant

George Orwell, “Modern Classics Shooting an Elephant“, Penguin Modern Classics ,2009

高橋さんが少し前にジョージ・オーウェルの「1984」を紹介されていましたが、そういえば高校の英語の教科書でこの作家の短いエッセイ ” Shooting an Elephant” を読んだことを思い出し、ネットで探して読んでみました(原文がただで公開されています)。お話自体はそう複雑ではないので、英語とはいえ辞書を引き引き最後まで読んでみました。

ビルマは1935年にイギリスのインド領の一部として併合されますが、オーウェルはこの頃このビルマで地方の警官をやっていて、その時直面した小さな事件をこのエッセイで語っています。ある日、象が発情して村で暴れているという通報を受けます。彼がライフルを持って現場に駆けつけると象は正気に戻り穏やかな状態で見つかります。やれやれ、と思って振り返ると2千人からの群衆がいて象が撃たれるのを今か今かと待っているのに気づくのでした…

と書いていくと長くなるのではしょりますが、結局オーウェル巡査は様々に錯綜した群衆心理に巻き込まれて結果的にその無害な象を自分の意思に反して撃ってしまうのです。その辺の細かい事情はぜひ原作を読んでください。(和訳もあります:「象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)1995/5」)

ここでオーウェルが暗に言いたかったことは、人はいかにして戦争に駆り立てられるかということではないかと思います。戦争の当事者同士は本当に戦争を起こすつもりはなくとも周りの状況が当事者を戦争に向かわせるという、そのメカニズムにオーウェルは自分の体験を通して気づいたのではないでしょうか。

さて、そうなるとこれは他人の話ではなくなります。現に北朝鮮はそういう状態にあるのではないでしょうか。今なおこのエッセイは色褪せずに警告を発しているのかもしれませんね。

(再掲:「放送大学の本棚」投稿記事)

手書きノートの試行

学習するのに手書きでノートを取るというアナログ型がやはり有効だと感じています。最近まで、A4の方眼ノートに2Bの鉛筆で記入し、それをあとでまとめてスキャンスナップでスキャンしてPDF化するというパターンが定着していました。これだとページを入れ替えて編集したり目次をつけたりできてこれをDropboxにでも置いておけばいつでもiPadなどで簡単に参照することができます。

ところが先月iPad Pro 12.9インチ + Apple Pencilを購入したので、ただいまこれを使ってノートをとっていく方法を色々と模索中です。iPadの手書きノートアプリはいくつか出ていますが、どれも一長一短といったところ。今のところ GoodNotes と ZoomNotes を使っています。書く感触は紙と鉛筆に勝るものはないのですが、書いた後の編集の自由度が圧倒的に高い。使っているうちにいずれもっとすごいアプリが出てくることを期待しています。

“Modern Classics Shooting an Elephant“

George Orwell, “Modern Classics Shooting an Elephant“, Penguin Modern Classics ,2009

高橋さんが少し前にジョージ・オーウェルの「1984」を紹介されていましたが、そういえば高校の英語の教科書でこの作家の短いエッセイ ” Shooting an Elephant” を読んだことを思い出し、ネットで探して読んでみました(原文がただで公開されています)。お話自体はそう複雑ではないので、英語とはいえ辞書を引き引き最後まで読んでみました。

ビルマは1935年にイギリスのインド領の一部として併合されますが、オーウェルはこの頃このビルマで地方の警官をやっていて、その時直面した小さな事件をこのエッセイで語っています。ある日、象が発情して村で暴れているという通報を受けます。彼がライフルを持って現場に駆けつけると象は正気に戻り穏やかな状態で見つかります。やれやれ、と思って振り返ると2千人からの群衆がいて象が撃たれるのを今か今かと待っているのに気づくのでした…

と書いていくと長くなるのではしょりますが、結局オーウェル巡査は様々に錯綜した群衆心理に巻き込まれて結果的にその無害な象を自分の意思に反して撃ってしまうのです。その辺の細かい事情はぜひ原作を読んでください。(和訳もあります:「象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)1995/5」)

ここでオーウェルが暗に言いたかったことは、人はいかにして戦争に駆り立てられるかということではないかと思います。戦争の当事者同士は本当に戦争を起こすつもりはなくとも周りの状況が当事者を戦争に向かわせるという、そのメカニズムにオーウェルは自分の体験を通して気づいたのではないでしょうか。

さて、そうなるとこれは他人の話ではなくなります。現に北朝鮮はそういう状態にあるのではないでしょうか。今なおこのエッセイは色褪せずに警告を発しているのかもしれませんね。

『人口と日本経済 – 長寿、イノベーション、経済成長』

2017年8月16日「放送大学の本棚」への投稿

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吉川 洋 『人口と日本経済 – 長寿、イノベーション、経済成長」
中公新書 2016年
日本経済

少子化で日本の経済力がこれから下降線をたどることが懸念されている現状に、経済学の立場からこれをどう把握するのかといったことがこの本のテーマとなっています。有名なマルサスの人口論では、人口は指数関数的に増えていくのに対して食物の生産はせいぜい等比級数的な増加しか期待できないため、やがては破局を迎えるということになっています。しかし、その後、ブレンターノは人口動態調査から、所得の伸びに伴って出生率が低下していくことを見出しました。今や経済的に成長した国はどこでもこのような傾向が認められています。マルサスは純粋に理論だけで人口の爆発的増加の危機を予想しましたが、経済が豊かになり選択の自由が生まれると、心理学的要因が発生して単純な予想を裏切るのだと思います。このような教訓から経済学が構成されている要素を考えると、原因と結果がすストレートに関数で表されることなく、その間に集団心理という要素が入り込むものなんだなあと気づかされます。

今日本が悩んでいるのは「少子化」というより「低成長」なのだと思います。この本で改めてその重要さに気づいたのがロジスティック曲線です。あらゆる需要は成長とともに指数関数的に増加しますが、市場は有限なのでやがて飽和点に近づくに従って鈍化しやがては成長がストップします。経済の成長を遂げた国は例外なく成長が鈍化していくということでしょう。国民の所得が増え、生活を享受したいがため子作りには消極的になっていくという定式化ができるのでしょう。

この本ではこの現状に対してごく常識的な感想が述べられているに過ぎませんが、これをきっかけにして少し踏み込んだ展望を探ってみたくなりました。以下、思いつくままに書いて見ますと….。

少子化はこういう環境に社会心理的要因が働いて起こるのだから、それを直接コントロールするのは土台無理なのではなかろうか?むしろ低成長のままで変動の乏しい今の経済自体を作り変えていった方がいい。日本の経済は今伸びきったゴムのような状態で、これからさらに成長せよと言われてももう限界がきている。再びゴムを伸ばしたければ方法は2つしかない。一つは別のゴムを見つけてくること。(イノベーションも部分的にこれに該当するだろう。しかしこれは一時しのぎに過ぎないんじゃ?)もう一つは、伸びきったゴムを一旦縮めること。(これはなんか方法があるかも。)伸びたり縮んだりのサイクルを作れないか(熱力学のカルノーサイクルみたいに)。溜め込んだお金を吐き出して消費に専念することがこれに当たるのかもしれない。ドカンと消費して次の需要拡大の土台を作っていく。(….などと妄想はこの本が言ってることとは無関係に広がっていきます。)