「現代思想の316冊」

現代思想2018年4月号「現代思想の316冊」、青土社

少なくとも今世紀に入ってから初めて雑誌「現代思想」を買ってきました。現代思想のブックガイドです。私の慢性的な教養不足をなんとかしたいと思って…。

パラパラ拾い読みした印象は、ああ、理解できる内容だ。その昔この雑誌に立ち向かったときには、とにかく取り付く島もない感じでした。あの頃は難しさが一つのファッションだったのか、呆れるほど自分に知識が不足していたのか…。多分「現代思想」自体、編集者が何世代か入れ替わっていて、また時代もすっかり様変わりして、ずっと読みやすくなっている感じがします。

20あまりの分野に分けて、それぞれの現代思想関係の本を紹介してくれます。昔のようにポスト構造主義、ポスト・モダン一辺倒という雰囲気は完全に姿を消し、バランス良く、自然体を保っているように思えます。ただ、意外にフーコーは各分野でいまだによく参照されている感じはしました。

拾い読みで「精神医学」の分野はどうなっているか見てみましょう。フーコーとか精神分析とかといった要素を完全に締め出したかに見える現在の「精神医学」ですが..。最近では臨床の場に再び「人文知」(哲学思想)との協働の動きが出てきているとのこと。フーコーの「狂気の歴史」の視点をおさえた上で様々な新しい傾向が出てきているようです。そういえばここでは取り上げられていませんが先日ご紹介した「中動態の世界」(國分功一郎)も臨床に直結した新しい視点を与えてくれています。そんな中で「あたらしい狂気の歴史」(小泉義之)という本に興味がそそられました。

長々と書いてしまいましたが、この本で興味のある分野の思想本を見つけてみてはいかがでしょう。

Histoire de la folie à l’âge classique

2018年3月7日「放送大学の本棚」への投稿

(以下)—————————————————–

Michel Foucault, 1972, Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard

ミシェル=フーコーの『狂気の歴史』の第一部をなんとか読み終えましたが、この訳語のわかりにくさに発狂して原書を発注してしまいました。アマゾンでペーパーバックでも10,000円という価格だったので、マーケットプレースで2,420円の古本を見つけた時「安い!」という気がして思わずポチりました。とはいえフランス語は放送大学でフランス語Iとフランス語IIをやっただけなので、この原書がスラスラ読めるわけではありません。

第二部冒頭、日本語訳では次のような箇所が出てきます。

「けれども結局、いかなる知の形態が、特異で、秘教的で、あるいは地方特有であるから、唯一の地点で、しかも単一な構成によってしかけっして示されないというのだろう?」

この文章、果たして日本語なのでしょうか?ともかく前後関係から何を言わんとしているのか忖度することはできます。しかしどこか腑に落ちない納まりの悪さがつきまといます。こうした集積が私のフーコー体験になって行くわけで、これは思うに大変不幸なことです。

原書では次のとおり。

“Mais quelle forme du savoir, après tout, est assez singulière, ésotérique ou régionale pour n’être donnée jamais qu’en un point, et dans formulation unique?”

これをGoogleの翻訳にかけます。

「結局のところ、どのような形式の知識は、一点でしか与えられない単数形、難解な形または地域的なものであり、単一の形式であるのでしょうか?」

Googleも「狂気」ぶりは先ほどの翻訳に負けてない気がしますが、こちらの方が多少わかる気が…。多分、assez…pour〜は、〜するのに十分…だという構文くさいので、��ある知識の形態が、一まとまりである為に、どのようにして、複雑怪奇で極めてローカルな形を取りうるのか。つまり、元来バラバラなものをまとまった形にすると奇妙奇天烈になってしまうということを言いたいのかな、などと思えてきます。(後続の文章を読んで行くとこの部分は反語的であることがわかる)