手書きノートの試行

学習するのに手書きでノートを取るというアナログ型がやはり有効だと感じています。最近まで、A4の方眼ノートに2Bの鉛筆で記入し、それをあとでまとめてスキャンスナップでスキャンしてPDF化するというパターンが定着していました。これだとページを入れ替えて編集したり目次をつけたりできてこれをDropboxにでも置いておけばいつでもiPadなどで簡単に参照することができます。

ところが先月iPad Pro 12.9インチ + Apple Pencilを購入したので、ただいまこれを使ってノートをとっていく方法を色々と模索中です。iPadの手書きノートアプリはいくつか出ていますが、どれも一長一短といったところ。今のところ GoodNotes と ZoomNotes を使っています。書く感触は紙と鉛筆に勝るものはないのですが、書いた後の編集の自由度が圧倒的に高い。使っているうちにいずれもっとすごいアプリが出てくることを期待しています。

論語の学而は一体何を言いたかったのか考えるのもまた楽しからずや?

学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。

「学びて時に之を習う。」と読んだり「学びて之を時習す。」と読んだりするらしい。読み方により自ずと解釈が変わってくる。何れにせよ、学ぶスタイルに重きが置かれている気がする。論語はどんな時でもスタイルを気にする学問のようである。

学ぶことと習うことは同時発生しないんだね。学ぶというのは先生から教わること、習うとは学んだことを本当に身につけることだろうか。うん、それは確かに楽しい。時間差があるから楽しい。

「有朋自遠方来」は読み方がいくつもありそれぞれ意味が微妙にずれてくる。だがしかしだ。「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来る、のは楽しい」などどここで言い出すのはいかにも唐突にあらず乎?(長年会ってなかった遠くの友がひょっこり現れたらそりゃ楽しかろうが、そんなこと孔子先生に言われんでも分かるわけで。)

「有朋自遠方来」を超解釈すると。

トポロジカルにかけ離れたものが合わさって合点が行くようになる。だからこそ楽しいのだ。

学而で時間的隔たり、有朋で(トポロジカルな)距離的隔たりを言い、それを乗り越えて得られる理解が楽しいと言っているのではないか。

「人不知而不慍、不亦君子乎」そういうことだから、今目の前にいる人がわかってくれなくとも取り乱さない、できた人とはそういうもんだ。(わし[孔子]のように2500年くらい経って、行ったこともない島の住民が理解してくれるようになるかもしれんからのう)

以上、好きなように解釈してみた。

サピエンス全史

読み終わった後、要は何なのかをしばらく考えていた。人類が幸か不幸かこれだけ突出して進化した理由が7万年前の「認知革命」にあった、というのが最大の力点とされるべきだろう。だとすれば認知革命についての議論がもう少し突っ込んだ形でなされなければならないと思った。それでも切り口は悪くない。

とてつもなく大規模の集団を動かすものなど本来ありはしない。鳥や魚の大きな群れは一見統制を持って行動しているように見えるが、それは指揮するものを全く持たずに、誰も意図せずに、個々が最善な行動をとった結果でしかない。

人類は「意図的に」大きな集団を動かすことができるようになった。それこそ「虚構」を持ってして…..。実体のあるものには限界があるが、虚構はどんどん虚構を作り出していく。それはまさに運動し、生産し、成長する。際限がない。

農業革命を作り、神話ができ、宗教が生まれる。統治者が生まれ、戦争が始まり、国ができ、交換を始め、産業が生まれ、学問が発達した。テクノロジーが栄え、娯楽が広まり、あらゆるものが脳化されていった。

この果ての未来に、著者は問う。この革命の成果として、果たして人間は少しでも幸せになれたのかと。