手書きノートの試行

学習するのに手書きでノートを取るというアナログ型がやはり有効だと感じています。最近まで、A4の方眼ノートに2Bの鉛筆で記入し、それをあとでまとめてスキャンスナップでスキャンしてPDF化するというパターンが定着していました。これだとページを入れ替えて編集したり目次をつけたりできてこれをDropboxにでも置いておけばいつでもiPadなどで簡単に参照することができます。

ところが先月iPad Pro 12.9インチ + Apple Pencilを購入したので、ただいまこれを使ってノートをとっていく方法を色々と模索中です。iPadの手書きノートアプリはいくつか出ていますが、どれも一長一短といったところ。今のところ GoodNotes と ZoomNotes を使っています。書く感触は紙と鉛筆に勝るものはないのですが、書いた後の編集の自由度が圧倒的に高い。使っているうちにいずれもっとすごいアプリが出てくることを期待しています。

“Modern Classics Shooting an Elephant“

George Orwell, “Modern Classics Shooting an Elephant“, Penguin Modern Classics ,2009

高橋さんが少し前にジョージ・オーウェルの「1984」を紹介されていましたが、そういえば高校の英語の教科書でこの作家の短いエッセイ ” Shooting an Elephant” を読んだことを思い出し、ネットで探して読んでみました(原文がただで公開されています)。お話自体はそう複雑ではないので、英語とはいえ辞書を引き引き最後まで読んでみました。

ビルマは1935年にイギリスのインド領の一部として併合されますが、オーウェルはこの頃このビルマで地方の警官をやっていて、その時直面した小さな事件をこのエッセイで語っています。ある日、象が発情して村で暴れているという通報を受けます。彼がライフルを持って現場に駆けつけると象は正気に戻り穏やかな状態で見つかります。やれやれ、と思って振り返ると2千人からの群衆がいて象が撃たれるのを今か今かと待っているのに気づくのでした…

と書いていくと長くなるのではしょりますが、結局オーウェル巡査は様々に錯綜した群衆心理に巻き込まれて結果的にその無害な象を自分の意思に反して撃ってしまうのです。その辺の細かい事情はぜひ原作を読んでください。(和訳もあります:「象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)1995/5」)

ここでオーウェルが暗に言いたかったことは、人はいかにして戦争に駆り立てられるかということではないかと思います。戦争の当事者同士は本当に戦争を起こすつもりはなくとも周りの状況が当事者を戦争に向かわせるという、そのメカニズムにオーウェルは自分の体験を通して気づいたのではないでしょうか。

さて、そうなるとこれは他人の話ではなくなります。現に北朝鮮はそういう状態にあるのではないでしょうか。今なおこのエッセイは色褪せずに警告を発しているのかもしれませんね。

『人口と日本経済 – 長寿、イノベーション、経済成長』

2017年8月16日「放送大学の本棚」への投稿

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吉川 洋 『人口と日本経済 – 長寿、イノベーション、経済成長」
中公新書 2016年
日本経済

少子化で日本の経済力がこれから下降線をたどることが懸念されている現状に、経済学の立場からこれをどう把握するのかといったことがこの本のテーマとなっています。有名なマルサスの人口論では、人口は指数関数的に増えていくのに対して食物の生産はせいぜい等比級数的な増加しか期待できないため、やがては破局を迎えるということになっています。しかし、その後、ブレンターノは人口動態調査から、所得の伸びに伴って出生率が低下していくことを見出しました。今や経済的に成長した国はどこでもこのような傾向が認められています。マルサスは純粋に理論だけで人口の爆発的増加の危機を予想しましたが、経済が豊かになり選択の自由が生まれると、心理学的要因が発生して単純な予想を裏切るのだと思います。このような教訓から経済学が構成されている要素を考えると、原因と結果がすストレートに関数で表されることなく、その間に集団心理という要素が入り込むものなんだなあと気づかされます。

今日本が悩んでいるのは「少子化」というより「低成長」なのだと思います。この本で改めてその重要さに気づいたのがロジスティック曲線です。あらゆる需要は成長とともに指数関数的に増加しますが、市場は有限なのでやがて飽和点に近づくに従って鈍化しやがては成長がストップします。経済の成長を遂げた国は例外なく成長が鈍化していくということでしょう。国民の所得が増え、生活を享受したいがため子作りには消極的になっていくという定式化ができるのでしょう。

この本ではこの現状に対してごく常識的な感想が述べられているに過ぎませんが、これをきっかけにして少し踏み込んだ展望を探ってみたくなりました。以下、思いつくままに書いて見ますと….。

少子化はこういう環境に社会心理的要因が働いて起こるのだから、それを直接コントロールするのは土台無理なのではなかろうか?むしろ低成長のままで変動の乏しい今の経済自体を作り変えていった方がいい。日本の経済は今伸びきったゴムのような状態で、これからさらに成長せよと言われてももう限界がきている。再びゴムを伸ばしたければ方法は2つしかない。一つは別のゴムを見つけてくること。(イノベーションも部分的にこれに該当するだろう。しかしこれは一時しのぎに過ぎないんじゃ?)もう一つは、伸びきったゴムを一旦縮めること。(これはなんか方法があるかも。)伸びたり縮んだりのサイクルを作れないか(熱力学のカルノーサイクルみたいに)。溜め込んだお金を吐き出して消費に専念することがこれに当たるのかもしれない。ドカンと消費して次の需要拡大の土台を作っていく。(….などと妄想はこの本が言ってることとは無関係に広がっていきます。)

『12歳の少年が書いた量子力学の教科書』

2017年7月22日「放送大学の本棚」への投稿

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近藤龍一)『12歳の少年が書いた量子力学の教科書』(ベレ出版, 2017), 関連科目->量子と統計の力学

森山さんが紹介された「シュレディンガーの猫」の近くに10冊くらい並べられていました。タイトルにあるとおり著者が12歳の時に書いたんだそうです。著者9歳にして量子力学を究めようと志したんだそうです。藤井4段ブームもあり出版社もこれは売れると踏んだんではないでしょうか。

この本は専門書のような高みには達していないものの、入門書としてはかなり踏み込んだ内容を持っており、著者曰く「中間書」つまり専門書と入門書の橋渡しとなるような本、という位置付けになっています。

学術書はなんでもそうだと思いますが、入門書はやたら万人ウケを狙ってわかり易さに腐心した本がたくさん出ていますが、専門書になると急に分かりにくくなって絶壁のような敷居の高さを誇るのが通例となっているものです。それはそうで、専門分野に一旦踏み出せば、その著者は専門家としての沽券にかかわるので、ついつい分かりやすさなんか2の次の本ができていくらしいのです。そういうことで、この本は希少な量子物理学の中間書としての社会的役割を担っているわけです。

放送大学の「量子と統計の力学」をこれから履修する私としては、襟を正して真剣にこの本を読んで見たいと思います。読み手として年長者の余裕は微塵もないのです。

論語の学而は一体何を言いたかったのか考えるのもまた楽しからずや?

学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。

「学びて時に之を習う。」と読んだり「学びて之を時習す。」と読んだりするらしい。読み方により自ずと解釈が変わってくる。何れにせよ、学ぶスタイルに重きが置かれている気がする。論語はどんな時でもスタイルを気にする学問のようである。

学ぶことと習うことは同時発生しないんだね。学ぶというのは先生から教わること、習うとは学んだことを本当に身につけることだろうか。うん、それは確かに楽しい。時間差があるから楽しい。

「有朋自遠方来」は読み方がいくつもありそれぞれ意味が微妙にずれてくる。だがしかしだ。「同じことを学ぶ仲間が、遠いところからやって来る、のは楽しい」などどここで言い出すのはいかにも唐突にあらず乎?(長年会ってなかった遠くの友がひょっこり現れたらそりゃ楽しかろうが、そんなこと孔子先生に言われんでも分かるわけで。)

「有朋自遠方来」を超解釈すると。

トポロジカルにかけ離れたものが合わさって合点が行くようになる。だからこそ楽しいのだ。

学而で時間的隔たり、有朋で(トポロジカルな)距離的隔たりを言い、それを乗り越えて得られる理解が楽しいと言っているのではないか。

「人不知而不慍、不亦君子乎」そういうことだから、今目の前にいる人がわかってくれなくとも取り乱さない、できた人とはそういうもんだ。(わし[孔子]のように2500年くらい経って、行ったこともない島の住民が理解してくれるようになるかもしれんからのう)

以上、好きなように解釈してみた。

サピエンス全史

読み終わった後、要は何なのかをしばらく考えていた。人類が幸か不幸かこれだけ突出して進化した理由が7万年前の「認知革命」にあった、というのが最大の力点とされるべきだろう。だとすれば認知革命についての議論がもう少し突っ込んだ形でなされなければならないと思った。それでも切り口は悪くない。

とてつもなく大規模の集団を動かすものなど本来ありはしない。鳥や魚の大きな群れは一見統制を持って行動しているように見えるが、それは指揮するものを全く持たずに、誰も意図せずに、個々が最善な行動をとった結果でしかない。

人類は「意図的に」大きな集団を動かすことができるようになった。それこそ「虚構」を持ってして…..。実体のあるものには限界があるが、虚構はどんどん虚構を作り出していく。それはまさに運動し、生産し、成長する。際限がない。

農業革命を作り、神話ができ、宗教が生まれる。統治者が生まれ、戦争が始まり、国ができ、交換を始め、産業が生まれ、学問が発達した。テクノロジーが栄え、娯楽が広まり、あらゆるものが脳化されていった。

この果ての未来に、著者は問う。この革命の成果として、果たして人間は少しでも幸せになれたのかと。