Histoire de la folie à l’âge classique

2018年3月7日「放送大学の本棚」への投稿

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Michel Foucault, 1972, Histoire de la folie à l’âge classique, Gallimard

ミシェル=フーコーの『狂気の歴史』の第一部をなんとか読み終えましたが、この訳語のわかりにくさに発狂して原書を発注してしまいました。アマゾンでペーパーバックでも10,000円という価格だったので、マーケットプレースで2,420円の古本を見つけた時「安い!」という気がして思わずポチりました。とはいえフランス語は放送大学でフランス語Iとフランス語IIをやっただけなので、この原書がスラスラ読めるわけではありません。

第二部冒頭、日本語訳では次のような箇所が出てきます。

「けれども結局、いかなる知の形態が、特異で、秘教的で、あるいは地方特有であるから、唯一の地点で、しかも単一な構成によってしかけっして示されないというのだろう?」

この文章、果たして日本語なのでしょうか?ともかく前後関係から何を言わんとしているのか忖度することはできます。しかしどこか腑に落ちない納まりの悪さがつきまといます。こうした集積が私のフーコー体験になって行くわけで、これは思うに大変不幸なことです。

原書では次のとおり。

“Mais quelle forme du savoir, après tout, est assez singulière, ésotérique ou régionale pour n’être donnée jamais qu’en un point, et dans formulation unique?”

これをGoogleの翻訳にかけます。

「結局のところ、どのような形式の知識は、一点でしか与えられない単数形、難解な形または地域的なものであり、単一の形式であるのでしょうか?」

Googleも「狂気」ぶりは先ほどの翻訳に負けてない気がしますが、こちらの方が多少わかる気が…。多分、assez…pour〜は、〜するのに十分…だという構文くさいので、��ある知識の形態が、一まとまりである為に、どのようにして、複雑怪奇で極めてローカルな形を取りうるのか。つまり、元来バラバラなものをまとまった形にすると奇妙奇天烈になってしまうということを言いたいのかな、などと思えてきます。(後続の文章を読んで行くとこの部分は反語的であることがわかる)

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