経済がわからん

2008 年 11 月 1 日

世の中は100年に一度の経済危機なのだそうだ。いまのところ「それがどうした」という気がする。

90年代に入って、アメリカは金融のハイテク化を押し進めた。あらゆるものが市場で売買できるようになり経済が活発になったことはまあいいことかもしれないが、現物を伴わない先物だけの売買や、オプション取引、金利のスワップなどあらゆるものが売買の対象になり商品化されてしまった。高度に理論的な金融商品が続々市場に繰り出してきた。そして市場は必要なものの売り買いの何倍ものサヤ取りを目当てにした取引が横行するようになった。株価は急上昇し、世の中は高収益を渇望するようになった。ザブプライムローンなどはそういった世の中のニーズに応える商品だったのだ。

バブルなどはじけてしまえば何が悪かったのかなどということはすぐに知れてしまう。経済がイケイケのときにはなぜかみんなものが見えなくなるのは不思議なことだ。それにしても90年代以降のアメリカのイケイケぶりと来たら…。何がまずかったかといって、世の中をお金主導のグローバルの渦中に巻き込んでしまった罪は深い。MBAがもてはやされ、企業はまず利益を上げることを強要され、儲からなければ従業員のクビをきり、成果主義が横行し、勝ち組がもてはやされ、カネを稼がないやつは無能の烙印をおされて放り出される世の中になってしまった。

カネは儲ければ儲けるほど良いという考え方がどだいおかしいのだ。アメリカの大企業のトップは年間にウン百億も稼ぐのだという。ちょっとこずるく稼ぐトレーダーなどには兆もの資産をためこんでいるものすらいるらしい。まったく下品なやつばらだ。いくらでも溜め込むのは自由だが、そのカネは幾多の人々を蹴落とし奈落の底に突き落としたあげくに稼ぎだしたものだと考えるとあまりおおらかな気持ちでもいられない。

この百年に一度の経済危機にあたり、これまでの悪行三昧をきちんと断罪しておくべきだ。アメリカのビジネスマン諸君よ!はっきりいってお前らが悪い。

最近思うこと

2008 年 8 月 12 日

日本の国はどこまでダメになっていくのだろうと、最近のうるさいオリンピック報道にいらだちながらも改めて考える今日この頃。「日本がダメになって」きているというのはなにもここ一番の大舞台で力が出せない日本選手のことを言っているのではありません。むしろ品よく大事なところで相手に勝ちを譲ってしまうような愛すべき日本人の美徳をいとうしいとさえ思っているくらいです。世の中全てカネの力(ちから)で固めつくされ、その力を借りてあらゆるボディーコントロールとマインドコントロールが当たり前のようになされている中で、日本の選手たちはまだどこか純な部分を心の奥に留めているように感じられ、それはむしろ好ましいことだと。

では何がダメになってきているのか。彼らをとりまくあらゆる環境がと答えるほかないです。今のオリンピックの場合で言えば、それはもろにマスメディアの報道に現れています。何であんな過剰な演出を施すのか。何であんなにドラマチックで感動的な印象を煽ろうとするのか。NHKにしてあの馬鹿さ加減。それはもはやスポーツの報道ではないですね。絶叫するただの応援団です。勝ち負けやメダルの数や記録などにあれほどまでに異常に執着することができるものかと。そして何がダメかといって、そういう報道にやすやすと乗っかってしまう大方の国民。いやもうそういうことに覚めてきている人も出てきているとは思いますがまだサイレントマイノリティでしょう。

スポーツの成績もさることながら、この大会を通してどの国が世界のヘゲモニーを握ろうとしているのか、そしてそれがどういう将来をわれわれにもたらすのか。少なくとも我々日本人にとって明るい未来が開けているとは言えないようです。そんなことに全く無自覚で(あるいは気づかない振りをして)、『感動的な』オリンピックのスキームにそっくり乗っかって我を忘れているのが今のこの国の姿といわざるを得ないでしょう。

期待と満足度

2008 年 1 月 17 日

マックワールドのジョブズのキーノート、昨年はiPhoneの登場ですごくセンセーショナルでした。2008年はそれを受けて周囲の期待はいやが上にも高まります。それだけに、その期待に応えるためにはその期待を大きく上回るものが提示されなければみんなが納得しません。その期待に応えてくれるという一抹の希望を抱いてはいたのですが、結果から行くとさすがにそれは無理だったのではないでしょうか。

Mac Book Airの発表は事前に報道されていたこともありあまりインパクトはなかったような感じです。去年大見得を切ってアップルコンピュータあらためアップルになった割にはまたPCに戻ってきたのかよ、と思いました。もっとWEBテクノロジーの方にシフトしていただきたかった。今回のキャッチコピー「Something in the Air」のAirは何を指すのか取りざたされていました。個人的にはAdobeのAIRがからんでこないかとちょっと期待したのですが、残念ながらそっちがらみの話はナシでした。

参議員選挙

2007 年 7 月 25 日

この時期にしてまともな話題。

なぜか年金論議しか聞こえてこない今回の参院選挙。ほんとにみんな目の前にぶら下がったことしか見えない人ばかりという印象を受ける。なんで群がるかね、こう一つのことに。天真爛漫な少年のサッカーのようにみんなボールがあるところに集まってがなり立てるばかりだ。ボールを取り合っているばかりで試合の行く末がわかっていない。火事が出れば真っ先に現場に馳せ参じる若衆も必要だが、火の回りを見きわめるために山に登って指図する年寄りがいなくちゃ世の中回らないと思うのだが…。

せめて良識のある参議院議員ならばもうちょっと物事を引いて見ていただかないと。目先のことは衆議院に任せておいて少しは大局的なビジョンを示して貰えないものか。戦後をどのように総括するのか、新しい世界秩序を目指して日本はどういう役回りを演じていくのか、そして何より今の日本人、心が荒廃していないか。目先の戦術ではなくて、誰もが依拠できる大きな世界観を提示してもらわなければならないというのに。

というわけで、日本の未来はまだまだ暗い。

銅価

2007 年 3 月 1 日

最近、銅線・銅地金の盗難が相次いでいる。あんな重いものを運び出して売り飛ばすなんて犯罪は昔は成立しなかったのに。銅の値段が異常に上がったためにこういう行為がペイするようになってきたらしい。いったい今銅はいくらくらいなんだと思いcomexのサイトで銅の価格表示を探してみた。アメリカ市場での銅の価格表示はポンドあたりのドル価で表示される。「2.8」という数字がそこにはあった。

実は遠い昔この銅のビジネスに少し関わっていたことがある。海外の銅鉱山から銅の鉱石を調達しそれを国内で精錬し、地金として販売する。銅は世界的に見ても供給が限られていて、いろいろな変動要因のせいで価格が安定しない。そういう物を原料として仕入れそれを売るにいたるまでには、結構な価格リスクが伴う。だから私がこの業界にいた当時は毎日銅の値段や受給バランスを注視していた。

その頃の銅価はいくらだったかというと1ポンドあたり60セントから70セントくらいではなかったかと記憶している。そのころは1ドルの大台に乗るだけでもむちゃくちゃな高値という感覚だった。それが今や2.8ドルである。浦島太郎状態の私にとってこの数字が何を意味するのかにわかにわからなかったのである。銅価を表す度量衡がかわってしまったのだろうかという錯覚すら覚えた。

なんでこんなに銅価が上がってしまったんだろう?銅原料の供給が急速に逼迫したとは思えない。私が会社をやめて間もなくチリの大型鉱山が操業を開始した。20世紀最後の大型銅鉱山プロジェクトと言われた「エスコンディーダ」という鉱山だ。それに価格が上がってくればかつて不採算で閉山に追い込まれた鉱山も息を吹き返してくる。

需要が急激に伸びたのだろうか?当時としては予想もしなかったことだが中国の著しい経済振興の影響で銅のような生産材の受給が逼迫していくのかもしれない。鉄や原油の値段も高騰している。そして銅の場合は鉄に比べると流通量が極端に少ない。(100分の1位のスケールだろうか。)だからふところが狭い分、急な需要増に供給が追いつけないというのは想像に難くない。

団塊の世代

2007 年 2 月 11 日

昨晩久しぶりにテレビの前に長時間居た。NHKで団塊の世代のリタイアをめぐっての視聴者参加型討論を延々とやっていた。私は団塊の世代ではないが団塊の世代はどんなものかというイメージ(あるいは偏見)は持っている。ここではその団塊の世代がああだこうだというのはひとまず置いといて、この番組で出てきた議論、言説を表層的に見た感想を述べるにとどめる。

この討論番組に参加していたのは、どういう基準で選ばれたのかは定かではないが、団塊の世代に属する人、属さない人合わせて十数名。テレビに普段よく出ているとおぼしき有名人(堺屋太一、崔洋一、宮台真司、金子勝、谷村新司、丹羽宇一郎、女性の実業家…)。これらの人々が今の日本から正しくサンプリングされているわけはないであろう。第一、テレビなどのパブリックの前でそれなりに意見を述べることのできる日本人はかなり限られている。したがって参加者はラウド・マイノリティの方々だと思った方が良い。

テレビらしくわかりやすい二項対立をまず設定する。「団塊の世代は社会に貢献したか、問題を残したか?」「リタイアした後地方に移住するのは是か否か」設問自体はアホだと思うがそれをきっかけとして色々な考えが引き出されていくのであればまあそれも方便という気はする。しかしやはりその設問のコンテキストで話を進めていくとやはり即物的な、いささかカサカサとした展開にならざるを得ないように思える。少し離れてこの議論を眺めていると、そこに浮かび上がるのはみんな「自分のため」に生きて来たし、そのためには数々の競争のなかをくぐり抜けて来たし、それのどこが悪いというやや無反省の日本人の姿だ。

話の大部分が経済に関する事であり、損か得かが重要なファクターを占め、少々手前勝手の論理を押し通す。団塊の世代がという主語ではなくて最近の日本人は、という主語で語ってもさして変わりはない。経済的に豊かである事がわれわれの国是になってしまった感がある。

団塊の世代が働かなくなってしまうと少子高齢化の中でそれを支える世代が困るという議論は、やはりその延長線上に「生む機械」という発想がつながっている様に思える。あれだけ柳沢発言に反発しておきながら結局本音は同じという自己矛盾が透けて見えてくる。年金などという再配分システムは社会の構造とともに柔軟に変化していかなければ機能しない。日本人は自分で自分の事はやる「自己責任型」に変貌してきたのだし、「他人の面倒など一切見ない」のが普通になってきた以上、ひとに面倒を見てもらう人を少なくしていくほかない。従って団塊の世代はこれから。悠々自適の隠居生活を始めようなどというのはお門違いで、70、80まで働かなくてはならないのである。80まで世の中で働いていく事が国民の幸福だという価値観が案外生まれてくるのかもしれない。

電塾九州

2007 年 2 月 6 日

先週の土曜福岡で開催された「九州電塾発足式セミナー」に足を運んだ。電塾とは何かというのもよくわかっていない門外漢ではあったが、知人のカメラマンに引っぱられて参加してみて大方どんなものであるのかが飲み込めた。

電塾はそもそもデジタルカメラの勉強会として東京で発足した。いまでこそデジカメというのは一般に出回り誰もが使う道具となっているが、そこはプロの世界のスペックを満たし、高水準の写真品質を維持しようとすると色々難しい問題が立ちはだかるらしい。

電塾の塾長の早川さんという人はかなり有名な人らしく、Photoshopの解説本を数多く出してもいる。人望も厚そう。当日はこの塾長をはじめ中心メンバー多数と各地方支部代表がスピーカーとして集まった。

プロのカメラマンの世界も今デジタル化の波が遅ればせながら全国津々浦々まで届き始めている。波に乗り遅れるとまずいという危機感が会場の空気からは感じられた。この雰囲気は15年ほど前デザイン業界に押し寄せたデジタル化の時と共通するものがある。しかしデザイナーはどちらかといえば「文系」、カメラマンはどちらかと言えば「理系」に分類される。だとしたらカメラ屋さんの方がデジタルへのなじみは早いように一見思われるが、そこはどっこい、一本気な職人さんも多いらしく一筋縄では行きそうにない気配が感じられた。

「産む機械」問題

2007 年 2 月 1 日

確かに「産む機械」という例えはどの方向から見ても美しい表現ではない。それに反応する世論というのもまあわかる気はする。しかし、あまりに脊髄反射的なリアクションは危うい気がする。「女性を機械にたとえるなんてもってのほか」というたぐいの極めて視野の狭い議論ばかりが世の中を沸騰させているように思う。こうなると猫も杓子も、与党の議員にいたるまで口を揃えて批判するようになってくる。

少し冷静になって考えると、政策や経済やマネージメントなどといった「カタい」世界ではあらゆるモノを機械と見なして動いているのである。あらゆる物が「機能」し、「生産」するという前提で世の中を作り上げ、我々はそれにドップリと浸かっているという実情にもう一度気づこう。あらゆるモノを物や機械として世の中が動く事によって、便利になり豊かになったと我々はどこかの時点で割り切ったのではなかったのか。子供を産み育てるなどということはこういう効率重視の世の中にとって適応しづらい行為になってきたということだと思う。

「少子化対策」などという思考法はこういった効率のみを重視する「カタい」世界で生み出される。「産む機械」という発想はこういう政策の考え方から地続きで出てくるものだと思う。したがってこれを発言した柳沢厚労相は何でこの例えがまずいのか多分未だに理解出来ていないのではないかと思う。むしろ与えられた課題に対して極めて実直に考え行動しているのだと確信しているはずだ。こんな「良識的」で小物の政治家を糾弾してもしょうがないではないか。

もはや「産む機械」発言批判が一人歩きしている。問題なのは話を極力単純な形にしてピンポイントで吹き上がっている事だ。マスコミの論調は恐ろしくわかりやすい形で設定され、しかも怒る国民(特に女性)を演出しようとする。世の中は皆感情的に反応し、誰もこれに逆らえない空気が出来上がっていく。こういう事態は戦前にもあったように思う。あの天皇機関説問題だ。天皇機関説の内容も把握出来ないような浅薄な議員が「天皇を『機関』に例えるとは何事か!」といい出し、誰もこれに反論出来なくなったあの事件だ。

「産む機械」という表現に何故これほどまでに人々が違和感を抱くかという事の本質に思いをいたすべきである。「いけねえ、いけねえ、俺たちは機械になっちまうところだった。機械でない人間を取り戻すべきだ。だからうわべだけの便利さや豊かさはもうごめんだ。」という動きにみんながなっていけばいいんだが。

Macworld San Francisco 2007

2007 年 1 月 14 日

Macworld San Francisco 2007

スティーブジョブズのキーノートでiPhoneが大々的に発表されました。アップルが手がけるケータイ端末iPhoneについてはこれまでに様々な憶測がされてきましたが、その実像はそれらの予想のはるかに上を行くものになりそうです。

かつてソニーのような企業をめざすといっていたこの会社は iPod + iTuneの爆発的な成功を追い風にして、デジタル家電企業への移行をはたしつつあるのでしょう。マッキントッシュというコンピュータももはや過去の物として扱われている感があります。

このキーノートのメインとなったiPhoneのプレゼンテーションを見て、これはエポックメーキングな転換点になるのではないかという(誰もがそう感じたとは思いますが)強い印象を持ちました。それはなぜかを考えてみます。

ジョブズはこのiPhoneが今のケータイの5年先を行っていると言いました。それは誇張ではない。アップルはこのiPhoneを世に出す事で今後5年のケータイ開発の指針を作ったと言えると思います。もっと一般的な言い方をすると、これからのデジタルデバイスが万人に浸透していくための基本スタイルを作ったと言っていいのではないでしょうか。その基本的スタイルとは圧倒的に洗練されたユーザーインターフェイスの実現ということに集約されます。アップルの存在意義をこの点にフォーカスしていくことを決意したのでしょう。

アップルのビジネス展開はエクスクルーシブなものです。決して誰もがこの技術を使えるような展開にはならない。アップルの製品を買った人だけが享受できる利便性である点がWEB2.0のコンセプトから外れるような気もします。しかし、アップルのやり方をまねする企業はたくさん出てくるでしょう。とくに日本の企業はこういう指針を与えられると、それを洗練させていくのは大変得意です。

総括するとこういう事ではないでしょうか。つまり、今回ジョブズによって今後のハードウェアとインターフェイスの指針が示された。その中でコンテンツをどういう風に展開していくのか、それが私たちの今後5年間のビジネスにつながっていくのだと思っています。

チタニール

2006 年 12 月 31 日

titanyl

こいつは良い弦だ!!

高音弦は指頭で弾いていても無理なく澄んだ音が出る。ハイポジションでも音が詰まらない。低音弦も音が明確でバランスが良い。高低ともに弾いた感触も悪くない。弦を張り替えただけでここまで音が変わってしまうものかと感心する。新しい楽器に出会った時のような衝撃すら覚える。いや、まいったね。